染織家で農家 地に足を着けて暮らしたい

染織も食べ物も素材が大切

里山に囲まれたのどかな風景が広がる朝日村西洗馬で、畑に青々と輝く早苗を大事に管理する女性がいた。染織家で農家の永井泉さん(41)=千葉県出身=だ。
高校卒業後に訪れた沖縄県で織物に魅せられ、染織の道へ。一度は千葉へ戻り、制作を続けた。だが、素材となる植物である綿に対する探究心と、農への関心が高まり、安曇野市の家庭菜園教室に通った。10年ほど前に松本市に、その後朝日村に移住した。
染織に使う綿と藍を栽培し、野菜や米も作る。農薬や化学肥料を使わずに、畑と田んぼ計4反歩(約4千平方メートル)をほぼ1人で作業する。「食べる・着るという人間の基本的なところを自分でやりたい。享受するだけじゃなく、地に足を着けて」という気持ちが原点にある。

震災きっかけに自然と向き合う

朝日村西洗馬で染織と農業を営む永井泉さん。屋号(工房名)は「野衣(のい)」。土から作る衣服、という思いを込めた。
まず歩み始めたのは染織家の道。高校卒業後に訪れた沖縄県は、染織が盛んな「布の島」だった。昔の人が、いとしい人への思いや幸せへの願いを込めて布を織っていたと知り、「布に対する概念が一変した」という。「昔の人が布を織る情景を想像したら豊かだなと感じ、織物をやっていこうと決めた」
東京の専門学校に通った後、伝統的な木綿の織物を追究するため、鳥取県の弓浜絣(ゆみはまがすり)の工房へ修業に。庭で栽培していた伯州綿(はくしゅうめん)を糸にしたときの、絹と見間違うほどのつややかさに、感動した。
千葉に戻り、鳥取の師匠から譲り受けた種で綿を毎年栽培し、制作を続けるうちに、「制作の根っこ」である綿や土のことをもっと知りたいと思うようになった。転機は東日本大震災だった。自宅も被害を受け、東京電力福島第1原子力発電所の事故にも大きなショックを受けた。
「原発がある地域のことを知らないまま、享受だけしていたと猛省した。食べ物もそう。どんな人が、どんなふうに作っているかも知らず、恩恵だけ受けていた。地に足を着けて暮らしたい」。以前から関心があった農へかじを切った。
安曇野市で開かれる家庭菜園教室に通い、松本市波田の自然農法国際研究開発センターにパート勤務をしながら、農や自然との向き合い方を学び、なりわいにすることを決心した。
友人の紹介で7年前に朝日村に移住し、田畑を借りた。長年耕作していなかった土地も、堆肥を入れて野菜を育てるうちに生える草が変わってきた。「草は厄介ものじゃなく、土の状態を教えてくれるもの」。刈った草やもみ殻、古い土壁などで自家製堆肥も作る。
田んぼの草取りは、田ぐるまや手作りした八反(はったん)どり、チェーン除草などの手作業で行う。昨年からは友人が手伝ってくれている。「最初は気合いで動き出すと、体力がついてくる。でも農業は1人でやるもんじゃないとつくづく思う」と笑う。
畑をやりながら、あるときふと「自分も自然の大きな循環の一部なんだ」という感覚になった。大変な農作業だが、「綿を育てていないと落ち着かない。染織も食べ物も、素材ってすごく大切。農をやることが心の支えになっている」と話す。
長年やりたかった染織の教室を4月から始めた。身近な素材なのに知られていない木綿を植物から学んでもらおうと、栽培や糸紡ぎに重点を置いた内容だ。日本古来の和綿を絶やさず伝えたい気持ちもある。
田畑や機械を貸してくれて、草いっぱいの畑でも見守ってくれる地元の人、支えてくれる人に感謝しながら、自然体で暮らす。日焼けした手を見せて「これから、ますますたくましくなります」と柔らかく笑った。