2020.11.19 日本地域情報コンテンツ大賞・タブロイド部門で2年連続優秀賞

【像えとせとら】番外編 播隆上人・松本市・朝日村

本当はこうなるはずだった?播隆上人(左)と中田又重郎の銅像
(松本駅前の播隆像に法蔵寺蔵の又重郎像を合成)

上條俊介が最晩年に制作
当初計画は2体1組

江戸時代後期の1828(文政11)年、北アルプス槍ケ岳(3180メートル)を開山した僧侶、播隆(ばんりゅう)上人(1786~1840年)。その銅像は、「岳都松本」の象徴の一つとして松本駅お城口広場と、制作者の上條俊介(1899~1980年)が生まれた朝日村にある。上條は本来、播隆を山に案内した中田又重郎(1795~1852年)の像と、2体1組で完成させるつもりだった。

松本駅前と朝日村の播隆像は、同じ石こう像から鋳造されたもので高さ245センチ、幅140センチ、奥行き80センチ。松本の像は、松本ライオンズクラブが創立20周年を記念して市に寄贈し、1986年に建立。上條の作品を多数収蔵する朝日美術館がある「縄文むら公園」(同村古見)の像は、2002年に建てられた。
石こう像の完成は1979年。上條は翌年、81歳で亡くなっており、建立された像を見ていない。
同美術館などが上條の生涯をまとめて刊行した「線と彫刻|上條俊介の生涯」に収録された日記によると、有志により播隆像を建立する話が具体化し始めたのが74年。上條はこの年から播隆ゆかりの玄向寺(松本市大村)を訪れ、像の制作を念頭に、同寺にある播隆の石像を写生するなどしている。
77年、播隆像の制作を最優先することを決意。同寺の荻須眞雄住職(当時)にモデルを依頼し、手甲や脚半、わらじを着けてもらった姿を写真撮影している。現住職の荻須眞教さん(76)は「(父親の)前住職がモデルを務めたことはよく覚えている。顔は、上人の肖像画を基にしたのでは」と振り返る。

案内役とセット 資金不足で幻に

上條のイメージデッサンからは、播隆を槍ケ岳に計5回案内するなど開山に重要な役割を果たした中田又重郎(小倉村=現安曇野市三郷小倉=出身)と2体1組の像にする計画だったことが分かる。
ところが「翌年(78年)までに完成させてほしい」という話が出て時間的な余裕がなくなり、自身と同じ彫刻家・北村西望の門下で、穂高町(現安曇野市穂高)出身の小川大系(1898~1980年)に又重郎の像の制作を頼んだ。
しかし資金不足に加え、「播隆と又重郎の像のバランスが悪い」という声もあり、結果的に独立像になった。小川が制作した又重郎の像は現在、安曇野市豊科の法蔵寺が所蔵している。
朝日美術館の学芸員、丸山真由美さんは「今、上條が播隆像を見たら『足りない』と言うだろう」と、その胸の内を推し量る。法蔵寺住職の大澤法我(ほうが)さん(67)は「槍ケ岳開山は、又重郎の力があって達成できた。これまで2人像になるチャンスを逸してきたが、必ずその日が来ると信じ、待っている」と力を込める。