【記者兼農家のUターンto農】#26 落ち穂拾い

稲と作り手の関係に思い

前回、稲刈りが日暮れまでかかったことを書いた。この日、やり残したことがあった。落ち穂拾いだ。暗くなると、地面に落ちた稲穂を見つけるのは難しい。
私が小さい頃は、もっぱら祖母が拾っていた。はぜ掛けが終わった田んぼを端から端まで見て回る。腰をかがめて、目を凝らしながら。
教科書か何かで、フランスの画家ミレーの「落穂拾い」を見てからは、祖母の姿に作品が重なることもあった。国や作物が違っても、農民のすることはそんなに変わらない。
丁寧に拾い集めても、たいした量にはならなかった。稲束1つになるか、ならないか。田んぼ全体の収穫量からすれば、微々たるものだ。
そこは祖母も分かっていたと思う。よく言っていた。「一粒一粒がお米になるために一所懸命育ってきたんだよ」。だから残らず拾ってあげるんだ、というわけだ。
いま考えると、おかしな理屈だ。拾うのは、人間の口に入れるため。稲にすれば、食べられるために育ったわけではないだろう。
でも、聞いたときは腹に落ちていた。稲作りへの思い入れを感じた気がした。稲が米粒を付けるのを自分たちが一所懸命手伝った、というような。農民と作物は、栽培する側とされる側と、すっぱり分けるような関係ではないというような。おぼろげだけれど、そんなことを感じていたんだと思う。ちゃんと拾わないと、もったいない、申し訳ないと思った。
今で言う、食育なのかもしれない。1人暮らしをするようになってからも、お釜のご飯は一粒残らず腹に収めていた。
今年の落ち穂拾いは、稲刈りを終えて再び日が昇ってから仕上げた。小学生の娘にその意味を説く場面もあった。でも、響いたかどうか。亡き祖母のように、言葉に重みが出るのはまだ先のようだ。